普通について
10時半から代々木上原で打ち合わせがあったので、久しぶりに総武線の満員電車に乗りました。何と真向かいにいたおじさんが、僕と全く同じシャツを着ていたのです。それもユニクロ。お互い気恥ずかしく、早くお茶の水駅に着かないかな〜と、そればかりを考えていました(笑)。
そういえば最近スーツを着ていません。普段の生活ではワイシャツとネクタイはまず必要ないし、近頃友人の結婚式も減ってきたので、スーツを着る機会がないのです。よくよく考えてみれば、最近どころか3年以上着ていないと思います。
まあ、着ればそれなりに格好はつくのですが、おそらく今年も着ることはないでしょう。もうこうなったらジョークのつもりで次の講演会はリクルートスーツ姿で登場してみようかな、何て考えたりもしていますが。
こんな自分ですが、写真家として駆け出しの頃は、出版社に写真を届けに行く度にスーツを着ていたのです。出版社の建物って、スーツ着用が原則だと思っていました。当時、とて〜も純粋な心を持つ吉村和敏君がいたのです(笑)。
ちなみに今は、GパンとTシャツを中心としたラフな格好です。365日代わり映えがしないので、もしかしたら僕は、相当世間から外れているのかもしれませんね。
電車に乗って会社に行き、家に帰って家族で食事をし、子供をいかに一流大学に行かせるかを考え、夏休みは家族で旅行し、正月は妻子を連れて実家へ帰る。週末になると野球をやったりゴルフに行ったり……。たぶんこの日本では、これが普通の生き方なんでしょうね。
僕自身、確かに「普通」に憧れたりもしますが、でもやっぱり自分には無理なんです。
例えば会社員になったとします。上司に飲みに誘われても、気分が乗らなかったり、ヨドバシカメラで買い物があったりすれば絶対に行かないし、得意先の役員クラスが参加する週末のゴルフだって、本を読みたかったり、映画に行く予定があったりすれば、絶対に参加したりはしません。ゴルフは興味ありませんから、と言ってきっぱり断ります。仮につき合いが出世に影響するようなら、会社の社長に手紙を書いて文句を言います。
そう、昔から自己中心的な人間で、それが個性でもありました。だからこの日本では、絶対にサラリーマンとして生きてはいけないのです(笑)。
でも、フリーとしてどうにかやっていけるのも、たぶん東京という大都市にいるからだと思います。地方で暮らしている人は、まずフリーという生き方に疑問を抱くのではないでしょうか。
実はつい最近まで、松本の田舎で暮らす両親や、親戚に、「和敏は一体いつ就職するんだ。写真もいいけど、頼むからか定職にはついてくれ……」と言われ続けていました。さすがに今は、諦めたのか、それとも写真家という生き方を理解したのか、何も言わなくなりましたけど。
……と、今日もついつい長〜い日記になってしまいました。
吉村さんが話題にされている「普通」は、あくまでも「平均的日本人像」なのではないかと推察します。ですが、価値観が多様化した現代では、その平均像も少しずつ変化してきているのではないかなと思います。また、上の方でどなたかがおっしゃっているように、「普通」の意味の幅もかなり広いものだと思います。
まだお尻の青かった学生時代、同級生と同じように就職活動を進めることが出来なかった私は、軽い気持ちで「普通の人みたいに生きられたらいいのに。」と口走ってしまったことがあります。そのときの姉の一言。
「思い上がりもいい加減にしなさい。自分が特別な人間だとでも思っているの? 普通に平凡に暮らしているように見える人だって、皆それぞれにいろいろな思いを抱えているのよ。」
深く反省させられました。私の心の片隅に、大衆迎合への嫌悪や一般的人々に対する蔑みの気持ちが潜んでいるのを、見透かされたからかもしれません(若者って、往々にそういう傾向がある、ということでお許し下さい)。
今回多くの方が寄せていらっしゃるコメントを読んで、姉の言葉をふと思い出しました。少しは大人になった今の私にとって、「普通」とは極ニュートラルな感覚です。たとえ、現在の生活が平均的日本人のそれとは少々違っているとしても、自分が普通でない、と思うことはなくなりました。
吉村さんのテーマとは、ずれてしまったかもしれません。すみません。
投稿: Fleur | 2006年4月30日 (日) 14時10分
「普通」「ふつう」って何なのでしょう?
私も日常的に会話の中では、「普通はさあ・・・」とよく口にしてもいます。
でも「普通」って、その人それぞれに繰り返される「日常」や「常識」や「基準」であって、「平均」や「標準」というものはあっても本当は存在しないものなのではないかしら?
「普通」か「普通じゃない」かということは、意識しなければ特に必要ないことの方が多いですよね。
自分がされて嫌なことは他人にもしない、という「マナー」を大切に生きることが「ふつう」なら、そうでありたいとは思います。
前向きに、気持ちよく生きること・・・それが「ふつう」なら、何て素晴らしい!
人の心の中にある「良心」が、その人個人の「ふつう」なのではないでしょうか?
ちょっと気になりました。
長々失礼致しました。
投稿: inori | 2006年4月28日 (金) 08時15分
普通かどうか自分では判断付きかねるようなところもあるのですが、サラリーマン生活をもう四半世紀続けました。滅私奉公的に仕事をするタイプではありません。サービス残業やら余計な付き合いやらは自分の意思で極力やらないようにしています。仕事が生きがいというような意識はもっていないです。服務規程に反しないように、とりわけ熱心ではないにしても仕事として可とされるレベルのことをするというのが私流です。「休むために働く」か「働くために休む」かという分類をすると日本のサラリーマンの「普通」は後者であるように思います。私は明らかに前者ですから「普通ではない」のでしょうね。回りを見ていても「自分中心」であるよりも「仕事中心」であることに自己満足しているような人たちが少なくないように見えます。不思議ですね。ともあれ、こういうことで長い間生活を成り立たせてきたのですから、今更フリーで何か仕事ができるはずもないです。好きなことは趣味としてやるから好きでいられるのだと思っています。写真撮影も中学生以来の趣味ですが、へっぽこ写真ばかりしか撮れません。この頃は写真は好きな作品を見ることでいいのではないかと思うようになりました。自分の写真を見ていても感心することはまずないです。ならば他人の撮った作品を鑑賞して楽しむほうがマシです。とはいいながらこれからも撮影する楽しみは細々と持ち続けていくつもりです。
投稿: ONO | 2006年4月26日 (水) 23時43分
吉村さん、こんばんは。
私は最近、ほぼ毎日?というほど最寄の百貨店の書店売り場にいます。書店とカフェ付きの最近、流行の?こういうカフェをなんていうのか?わかりませんが。カフェに本を持参して購入する場合は、飲み物から100円引き。ついつい通ってしまっています。主に私が持参する本は写真集です。
勿論、吉村さんの写真集を中心に。
今日の午前中も、書店の店員さんと吉村さんのことをお話していたところです。写真展に伺ったときの吉村さんの応対に
感動をしたお話とか・・。色々です。
私はいつも吉村さんの写真集を宣伝するものだから・・
書店の店員さんもたちも吉村さんファンになられたご様子ですよ。どんどん輪が拡がるのは私も嬉しいことです。
何かあるごとに友人たちへの贈り物に差し上げたりしています。吉村さんの写真集や、ポストカード。。。
最近、林檎の畑_?あの林檎の花のポストカードを探しているのですが。あのポストカードを購入したいです。
投稿: ワイングラス | 2006年4月26日 (水) 23時37分
就職する前は、普通のOLが一番
普通で幸せなのかなって思ってました。
平均的日本人の考えかも・・・。
でもいざ就職してみると、
会社って本当「しがらみ」で
成り立ってると感じます。
必要のないしがらみをもっと
断ち切ることができたら、日本の
サラリーマン生活ももっと
快適になりますよね♪
投稿: 夢 | 2006年4月26日 (水) 21時37分
私の連れ合いはカメラマンです。
今はカメラマンとは言わなくてフォトグラファーですね
でも吉村さんとは違ってムービーの方なんですが、。
これが又解ってもらえないんですよね。
特に年配の方や田舎の親戚にはね。
街の写真館なら未だ良いのですが、
DPE屋さん
(これもデジカメの普及で激しい勢いでなくなりましたね。携帯電話の普及で公衆電話が無くなったのと同じ勢い
)説明に一苦労しました。
カメラマンとして会社勤めをした事もありましたが、結局フリーになりました。
経済的には不安定なので、私が会社勤め。
いわゆるサラリーマン社会の中でうん十年働きました。でも幸い女性だったので、少しは昇級しましたが
男性と違って出世争いにもどこか人ごとでした。
上役への気遣いなど男は大変だねと冷ややかに観察しておりました。病気治療のために退職してみて、あの世界も悪くはなかったと思います。何しろ安くても安定した収入がある事は有り難い事です。
又趣味で習っていたタップダンスの先生は,
”僕は一番好きな事を仕事にしてしまったので、
弱音を吐けない、好きな事を趣味にしている人が羨ましい事があるよ”と。
普通ってなんでしょうね。サラリーマンも芸術家もその人にとっては普通の生き方なのかもしれません。
私にとっての普通は,小さな庭で季節の写り変わりを実感できる今の生活です。
投稿: おざさ人 | 2006年4月26日 (水) 16時56分
私の両親も吉村さんと同じような考えでした。
なので私もOLなんて到底無理!と思っていましたが
必要に迫られてはじめてみたら早いもので7年目です。
もう無理です、ずっと我慢していましたがやっぱり辛いですね~。
吉村さんのように、人より秀でたものを持ち、それで生計を
立てることができたらそれが一番自分らしく生きられる方法なのではないかと思いました。
うらやましいです。
何も無い人は、こうやって我慢しながら働くしかないのかな~。
でも今年で辞めてしばらくPIEへ行きますっ。
サラリーマン生活が性に合う人ももちろんたくさんいるのでしょうけどね(^-^)
疲れたときには吉村さんのお写真で和んでいます。
投稿: hana | 2006年4月26日 (水) 15時33分
おはようございます。
興味深いテーマでした。
普通・・・と言う幅は、よく考えてみると、とても広いのだろうと思いました。我が家は自営なので、サラリーマン生活は一年だけでした。今は子どもたちもみな手伝ってくれているので、吉村さんがお書きになっているような接待や出世と言う特徴を備えたサラリーマンは家族の中に一人もいません。友人たちの中にもわずか一人しかいません。あとはみな定時で帰って家族中心に暮らしているひとばかり・・・。我が家ももちろん食事は家族そろって・・・。類は友を呼ぶのかもしれませんね。
幼いころ、仕事と言うのは、家族や自分を支える手段にすぎないと思っていました。当時まだ経済的に安定しない社会でしたから父は家族を養うために仕事を選びませんでした。父にとって一番大切な事は家族を養うことでした。そんな空気を吸って育ったせいか、配偶者として選んだ相手もそんな考え方の人でした。夫は仕事に関して不満を行った事が一度もありませんし一生懸命働く人なので「今の仕事好き?」と聞いてみました。彼の答えは「好きでも嫌いでもない、悪い事に関わらない限り家族が養えれば何でもいい」と言うものでした。確かに父と似たところがあります。子どもたちにも聞いてみましたら、「はっきり言って、嫌いな仕事だね。だけど別にこれで一生でもいい、仕事だから。」と言いました。彼は多趣味で生きる事を楽しめているので、仕事の部分はあまり重く考えてはいないようです。とはいえ仕事はまじめにこなしており、得意先ともいつの間にか友達関係のようになっており、会社にとって無くてはならない存在になっています。彼も夫と似たところがあります。と言うわけで、私の周りではいわゆる『普通のサラリーマン』が珍しい存在となっています。
それにしても、最近は職種決定は人生に関わるとても大きな選択になっているようですね。
吉村さんのように、ご自分の好きな事を仕事に持てて、それによって暮らしを成り立たせる事が出来る人は稀だと思います。きっと多くの人はそういうことに憧れているのでしょうね。
因みに私の仕事は、主婦です。それによる実収入はありません・・が、たいていの事を業者に頼むのではなく自分で修理したり作ったりすることによって支出を減らしたり、家族の憩いの場を作ったり、良い友人関係を築いたりして、家族の幸福にも貢献できているはずですので、それらも金銭に換算するとなかなか高収入になっているのではないかと自分では思っているのですが・・・家族の意見は夕食のときに聞いて見ることにします。
投稿: masa | 2006年4月26日 (水) 10時08分
人間「普通」に生きることが、とても難しいのだと最近思うようになりました。我家はサラリーマン家庭で典型的な普通の家族ですが、普通でもそれなりに劇的な出来事なども起こりました。普通である毎日がどれだけありがたいかそのときにはつくづく思ったものです。だから吉村さんのようなフリーな生き方に憧れはしても、実際自分が同じような生き方ができるかというのは疑問です。吉村さんの写真の世界に逃避行はできますが・・・。
投稿: 朝降る星 | 2006年4月26日 (水) 09時50分